トニー・シェイとの思い出:第3回ザッポス社滞在―『ザッポスの奇跡』を書くまで

トニー・シェイとの思い出
第3回:ザッポス社滞在―『ザッポスの奇跡』を書くまで(2008年9月)

ザッポスへの取材旅行に出発したのは2008年9月下旬。夏のさなかは過ぎたとはいえ、まだ残暑が厳しい頃だった。私のオフィスがあるロサンゼルスからは、ラスベガスは飛行機で飛ぶと一時間弱。いつもは飛行機で移動していたが、今回は一週間ラスベガスに滞在するということで、足があったほうが便利だろうと車を運転して行くことになった。

スタッフ二人と私の合計三人のクルーだったが、ラスベガスへの道中、忘れもしないのは砂漠の真ん中でタイヤがパンクしたことだ。ロサンゼルスからラスベガスへは高速で五時間くらい。二都市を結ぶ15番フリーウェイ上に「バーストウ」という町があり、そこを過ぎると何もない砂漠地帯が延々と広がる。そのバーストウの『イン・アンド・アウト(私の好物のハンバーガー・チェーン)』でランチを食べ、さあ一路ラスベガスへと勢いよく出発したが、ほんの10分くらい走ったところでガタガタという音とともにいやな感覚があり、道路わきに車を寄せた。

AAA(トリプル・エー:日本でいうJAF)のロードサービスを呼び、待つこと約一時間。タイヤをスペアに替えてもらって事なきを得たが、待っている間は焦って、車中の温度が上がりすぎないよう窓ガラスをタオルで覆ったりなどいろいろと工夫した。今となっては笑い話だ。

振り返れば、そういったハプニングも、「ザッポス」という会社の奇跡に触れた一週間の始まりにふさわしいものだったと思える。連日、私たちは『ラスベガスにようこそ(Welcome to Las Vegas)』という名の会議室に陣取り、朝の九時から夕方の六時までほとんどノンストップでインタビューを行った。トニー・シェイを取り巻く経営陣からコンタクトセンターで働く社員さんたちまで。まるで子供のように、すべてのことを吸収しようと貪欲に見聞きし、質問に次ぐ質問を投げかけた一週間だった。

ザッポス本社でのインタビュー

そこでわかったことのひとつは、トニーがあまり多くを語らない人だということだった。むしろ、できるだけ周囲の人に委ね、自分ではなく他の人たちが活躍できる機会をつくろうとしていた。質問すると「〇〇に聞くといいよ」と人につなげてくれるか、「この本を読んだらいい」と本を紹介してくれることが多かった。トニーはそれまでに私が出会った誰よりも勉強家だった。そして何より実践派だった。

ザッポスをつくっていく過程で行われたことの多くは、『ビジョナリー・カンパニー② 飛躍の法則』や『Tribal Leadership』『PEAK』などといったビジネス書から学んだアイデアを彼なりに実装したものだ。読書家はたくさんいるが、多くの人が読んだだけで「学んだつもり」になってしまう。しかし「読みっぱなし」にせずに、やってみる。実践の結果である成功や失敗から学ぶ、というのがトニーの「天才」でもあった。

前回に書いたザッポスへの「初めての訪問」で面白かったことがもうひとつある。せっかくだから、日本について「何か」プレゼンしてくれ、人を集めるからとトニーに頼まれたことだ。具体的なリクエストはなかったので、日本の「カルチャー」と「ビジネス好機」をテーマに、「ウォシュレット」や「キャラ弁」などについて話させてもらった。思えば、あれは、「学ぶ機会を決して逃さない」というトニーの姿勢そのものだった。

ザッポス本社でのプレゼンの様子

「学び」に熱心な人だったから、社内の「学ぶ環境づくり」には並々ならぬ力を注いでいた。『ザッポスの奇跡』の中にも書いた「ザッポス・ライブラリー」は、トニーが社員にも読んでほしいと思った本を集めた本棚で、会社の受付のロビーにあった。同じ本が何冊も並んでいて、借りたい人はもちろん借りることもできるし、返さずに自分のものにしてもいいということだった。「読みたい本があれば」と部外者の私にまで勧めてくれた。

当時、トニーが夢中だったことのひとつに「パイプライン」というリーダー養成プログラムの構想がある。五年から七年で新人をリーダー格に育て上げるというもので、職種は関係なく誰に対しても門戸が開かれていた。普通の会社で「リーダー候補生」というと特別に選ばれた人たちというイメージがあるが、ザッポスでは「誰でもリーダーになれる」と謳っていた。社内の流動性も高く、コンタクトセンターのオペレーターとして働いていた人がバイヤーになったり、教育担当者になったりといったこともまったく珍しくなかった。トニーはゆくゆくは「パイプライン」を社外にまで延長して、ザッポスに関心をもつ大学生を「パイプライン」に迎えて、入社前から教育することで「ザッポニアン」に育て上げることまで考えていた。そういった展望について語るトニーの表情はいつになく熱を帯びていた。口数は少なかったけれども、きらきらした珠玉のようなアイデアを頭の中に常にいくつも抱えている人だったのだ。

ザッポスは彼にとって「ファミリー」だったから、「リーダー養成プログラム」は、ザッポスを愛する人たちができるだけ長く、できれば生涯ザッポスで働けるように、ということが狙いでもあったのではないか。アメリカの企業としては異色だが、真の終身雇用をザッポスは目指していたのだ。

「リーダーは温室の建築家のようなもの」・・・。のちのインタビューで聞いたトニーの言葉が強烈に印象に残っている。一番華やかに咲く花になりたいという経営者が多いけれども、それでは周りが育たない。むしろ、リーダーは自分以外の人がすくすくと成長し、のびのびと活躍できるような「環境」をつくることに熱を注ぐべきなのだ、と。それがまさしく、ザッポスでトニーが成し遂げたことだった。

2009年7月、ザッポスはアマゾンに買収されその傘下に入ることになるのだが、その「前夜」にあたる2008年のザッポスははちきれんばかりのエネルギーでみなぎっていた。年商1,000億円にようやく手が届くくらいの規模であったのにも関わらず、靴のカテゴリーではネットの巨獣アマゾンを依然として大きく引き離していた。メディアの注目度から見ても、ザッポスは間違いなくアメリカで最も「旬」な会社だった。当時、日間売上が記録更新するたびに、ザッポニアンは記念Tシャツをつくり、トニーのお気に入りだったグレイグースのウォッカで乾杯した。全米に、いや全世界に誇れる会社をつくっているんだという気概に満ちていた。

ザッポス社員の皆さんとのインタビュー
(写真:ザッポス社員へのインタビューの様子)

しかしそれでいて、当時のザッポスというのは、CEOのトニー・シェイの人となりそのものの、謙虚でひたむきな会社だったのだ。ヘンダーソンという郊外の町のビジネスパーク内にあった平屋の社屋はまるで大学のキャンパスのようだった。チームが競って内装を手掛けたという会議室、オフィスの天井から所狭しと吊るされた装飾、思い思いに描かれた「コア・バリュー」のポスター・・・、社内のなにもかもが手づくりだった。無料のカフェテリアも、自由に具を組み合わせてつくるセルフサービスのサンドイッチとスープ、そして日替わりのメイン・ディッシュというシンプルなものだったが、そこにはいつも楽しげに集う社員たちの笑顔があった。ハーバード大学在籍時代にキャンパスでピザ屋を営んでいたトニーが、「昔取った杵柄」で厨房に入り、手作りのピザを社員に振る舞う日もあった。

ランチを振舞うトニー
(写真:社員たちにランチを振舞うトニー・シェイ)

一般のテクノロジー・スタートアップに見られるような派手さはなかったけれども、愛情にあふれていた。「この会社をみんなで守り立てていくんだ」という情熱が、その空間にいるだけでひしひしと感じられた。一度訪れたら好きにならざるをえない、愛すべき会社だった。

次回に続く)

ダイナ・サーチ代表・石塚しのぶ

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