ホール・フーズ・マーケットの「ブランド刷新」が独立系ニッチ・スーパーにもたらす市場好機

ロサンゼルスに、エラワン(Erewhon)というちょっと不思議な名前の自然食品スーパーがあります。1968年からある老舗ですが、近年、着実に店舗を増やし、つい数週間前に私の自宅の近所に四号店をオープンしました。

かなり硬派な自然食品スーパーで、クオリティの高いものばかり扱っているので、お値段は決して安くはありません。それでも、開店早々長い列ができました。ほんとうに「特別」な店舗が我々のネイバーフッドにやってくる・・・、そんな期待感がひしひしと感じられました。

昨年、世界最大のオーガニック/ナチュラル・スーパーを謳うホール・フーズ・マーケットが世界最大のネット通販会社アマゾンに買収されて、大改造が行われています。その「大改造」の一環なのか、なぜだか私の近所にあったホール・フーズ・マーケットの店舗は立て続けに二軒閉店してしまいました。そんな中で、エラワンはベンチャー投資などとは無縁なまったくの独立系店舗でありながら、「特別」を求める顧客の人気を集め、快進撃を続けています。

アメリカの流通市場を80年代から観察・研究してきましたが、ホール・フーズ・マーケットの今後を巡るアマゾンの意図は明らかに「マス化」にあります。それは、アマゾン本体が得意とするところが「マス」へのアピールであるからです。1995年の創業以来、アマゾンは「低価格、品揃え、便宜性」の好循環を軸に顧客の心を掴んできました。ホール・フーズ・マーケットはアメリカの「オーガニック・ムーブメント」の先駆けとなったニッチ・ブランドですが、それを傘下に収めた今、アマゾンは自らの得意分野で競争できるよう、ホール・フーズ・ブランドの大刷新を図っているように思います。

Whole Foods, Whole People, Whole Planet – 健全な食品、健全な人々、健全な地球をモットーに掲げ、1980年の設立から、ホール・フーズ・マーケットは「健全性」にフォーカスをおいた妥協のない品揃えを軸に、唯一無二の体験をヘルス・コンシャス/ソーシャル・コンシャス/グルメな顧客層に提供してきました。しかし、最近、ホール・フーズ・マーケットの店舗に行くと、「セール」サインが目立ち、かつてのように、「身体にやさしい、地球にやさしい商品になら少々高くてもお金を払う」顧客ではなく、プライス・コンシャスな顧客にアピールしようとしていることがクリアにわかります。

その結果、ホール・フーズ・マーケットの本来のコア・カスタマー層である「身体にやさしい、地球にやさしい商品になら少々高くてもお金を払う」顧客からは、「品質が目に見えて劣化した」「『普通のスーパー』と変わらない」「もうかつてのホール・フーズではない」「いったい、どこで買い物したらよいのか」などと不満の声が上がるようになっています。

ホール・フーズのブランド刷新によってもたらされた「空洞」を埋める役割を果たしてくれるのが、エラワンのようなスペシャルティ・マーケットなのではないかと私は思います。エラワンは、ホール・フーズ・マーケットがかつて提供していたような「特別な体験」を提供してくれます。もちろん、価格は段違いに高いです。しかし、エラワンで買い物をするような人たちは結局はそこで買い物をすることがある意味「自己表現」となるような「特別な体験」を求めているのではないでしょうか。

また、人々は「安心」にお金を払うのだ、ということもできます。エラワンに行くと、自分には馴染みの薄いようなもの、説明されなければその食べ方、使い方や効用がわからないようなものもたくさん並んでいます。しかし、「エラワンで扱っているものだったら間違いない」という絶大なる信頼と安心感があるのです。かつてのホール・フーズ・マーケットはまさしくこのような「安心」を提供してくれるお店でした。

いかに、「健康な食生活をしたい。環境に対するダメージができるだけ少ないやり方で消費したい」と強く望んでいても、個人が自ら学習して得られる情報やできることには限りがあります。実現したいライフスタイルのための情報を提供してくれたり、その手間を省いてくれたり、そういった「安心」に顧客はお金を払い、自分の「創りたい生活」を一緒に創ってくれるお店を顧客は支持するのです。

アマゾンによるホール・フーズ・マーケットの「マス化」が今後の売上や市場シェアの面でどんな結果をもたらすのかはまだわかりません。しかし、そのブランドに対するコア・カスタマーの信頼やマインド(心の)シェアの揺らぎはホール・フーズ・マーケットにとって大きな損失であると私は思います。

追記:Erewhonは、イギリスの作家サミュエル・バトラーが1872年に出版した風刺小説の題名。架空の地名であり、「Nowhere(どこでもない)」を逆さまに綴ったものといわれている。