月刊『アイ・エム・プレス』 : No.6 “顧客”としての患者 -医療の現場にも押し寄せる“顧客主導”の波-「顧客を知る、顧客とつながる 顧客主導型市場における米国優良企業の挑戦」

医療の現場を考えると、一昔前までは、「お客様は神様」ならぬ、「お医者様は神様」であった。医師の言うことが絶対で、診断や処方に質問を発する、あるいは異議を唱えようものなら、一喝されそうな勢いであった。「医者の言葉は黙って聞くものだ」というのが常識としてとらえられていたが、これは日米共通の感覚であったと思う。

しかし、昨今の米国では、医療の現場における売り手と買い手の力のダイナミクスが極めて急激に崩れ始めている。つまり、“顧客主導”の波が、いわゆる消費市場ばかりではなく、医療サービス市場へも押し寄せているということだ。

従来的な感覚に照らして考えると、“医療”という言葉と、“売り手”と“買い手”という言葉を一緒に使うこと自体が、異様に受け止められるかもしれない。もっと言えば、“医療サービス”という言葉にさえ違和感を覚える人もいるだろう。しかし、今日の米国においては、医療市場も、一般的な消費市場の類にもれず、商品やサービスが売り買いされるところであるという認識がごく当たり前になってきている。消費市場により近付いた医療市場においては、商品やサービスの“買い手”である患者は、“顧客”として認識され、“顧客”にふさわしいパワーを享受しつつあるということである。

“顧客エクスペリエンスの刷新”に注力する医療組織

米国最大手のHMO(会員制健康維持組織)であるカイザー・パーマネンテは、2004年に、“Thrive(繁栄)”をメイン・テーマに、大々的な広告キャンペーンを立ち上げた。TV、ラジオ、ビルボード(屋外広告)、雑誌といった複数の媒体を駆使した同キャンペーンは、カイザーの提供するサービスの質や機能的メリットを訴えるのではなく、むしろ、『健康なライフスタイルと充実した人生設計におけるパートナー』としてのカイザーのブランド価値を訴求して消費者の共感を呼び、今日まで継続されている息の長いキャンペーンである。

高騰する医療費の抑制を目的として1990年代初頭に台頭したHMOは、比較的安い保険料で質の高い医療サービスが受けられるというメリットもあるが、管理会社が医師の診療活動を細かくモニターし、患者が受けることのできる医療を制限するという弊害もあり、消費者の視点からは、「専門医になかなか会えない」「慢性的な疾患に対し、十分な予防措置や管理指導を提供してくれない」などといった“カスタマー・アン・フレンドリー”なイメージが付きまとっていた。

そこで、カイザーはTVなどのマス媒体を通して、人間味溢れる医師像と人生を謳歌する老若男女の姿をドラマティックに見せることにより、このネガティブなイメージを払拭し、「個人と地域社会の“繁栄”に貢献するカイザー」という新しいブランド・イメージの刷り込みを行おうとしたのである。

医療サービス・プロバイダーによるブランディング・キャンペーンというのは、米国でも新しい動向であるが、ここからも、米国の医療市場が徐々に“顧客主導化”していることがうかがわれる。また、カイザー・パーマネンテでは、ブランド戦略に投資するのみならず、“顧客エクスペリエンスの刷新”を目的とし、米国随一の産業デザイン会社、アイディオ社をコンサルタントに迎え入れ、施設環境およびサービス・プロセスのリデザインを2003年から行っている。社会学者、デザイナー、建築家、エンジニアなど、多種多様な専門家から構成されるアイディオ社のプロジェクト・チームは、カイザーの医師、看護師、ファシリティ・マネージャーをデザイン・プロセスに巻き込み、カイザー施設で診察を受ける患者の様子を観察したり、自らが患者に成り代わってカイザーの“サービス・プロセス”を体験したりすることを通して、カイザーにおける顧客エクスペリエンスの現状を顧客の視点から把握した。「手続きが面倒」「待合室の居心地が悪い」「診察室に付き添いを連れて入れないのが心細い」「ペラペラのガウンだけを着た半裸の状態で、診察室で待たされるのが不快」など、これらの体験を通して得られた洞察をもとに、問題点を提起し、施設環境そのものの改善や、プロセス改善につなげるというのが、アイディオ社のメソッドだ。

こうした努力の甲斐あってか、最近、カイザー・パーマネンテの名は、顧客中心にデザインされた医療施設の成功事例として、米国の業界カンファレンスでも話題にのぼるようになってきた。例えば、米国の著名なヘルスケア・フューチャリスト、ジョー・フラワー氏は、知人に頼まれてカイザーの病院に眼鏡を取りに行った経験について、次のように述べている。

「迷路のような施設内で目的地を探すことの難しさや、長蛇の列、混み合った待合室を想像して、病院に行く前からうんざりしていた。しかし、院内の表示は明確で、迷わずに眼科にたどり着くことができた。そして驚いたことに、受付に列がまったくない。看護師らしき女性に用件を伝えると、速やかに奥に行き、眼鏡を手に戻ってきて、あとは、受取書に署名をするだけ。“待ち時間”は、わずか90秒足らずだった」

顧客の視点に立って、顧客のエクスペリエンスを考え、それを基にサービス・プロセスをデザインする。これこそが、“Future of Healthcare(医療の向かうべき未来)”であると、フラワー氏はこの逸話を締めくくっている。

消費者主導型ヘルスケア

本誌は別に医療業界に特化したものではないので、込み入ったところにまで言及するのはあえて避けるが、米国の医療市場の大きな波となった“顧客主導化”の要因としては、米国における新しい医療保険制度、“CDHP(Consumer-Driven Health Plan:消費者主導型ヘルス・プラン)”の導入がある。

1990年代初頭にHMOが勢力を伸ばし、それが米国における医療費増加率の抑制につながった。しかし、HMOの拡大によって医療費の高騰に歯止めがかかったのはごく一時的な現象であり、現在においては、米国の医療費は再び急騰の傾向にある。

患者の負担額を最小限にとどめた医療保険制度のもとでは、「どうせ保険が払ってくれるから」という心理がどうしても患者の側に存在する。今日、導入が加速化しているCDHPは、医療用途に特化した預金口座を免責額の高い一般の保険プランと連動させ、ある一定の金額までは医療費を患者の本人負担にするという制度である。医療費の使い道を患者本人の采配に任せることにより、“消費者”としての患者の自覚を高め、無責任かつ不必要な医療サービスの利用を抑制することができるというのがCDHP推進者の理論である。

消費者が医療サービスに対して“自腹を切って”支払うようになれば、当然、今までとは違った目で医療サービスを吟味し、慎重な購入を行うようになるだろう。つまり、よりコスト効率よく、自分のニーズをより的確に満たしてくれるプロバイダーを“選んで”お金を支払うようになるということだ。消費市場化が進んだ医療市場においては、顧客から“選ばれる”プロバイダーになることが重要になってくる。今日の消費市場において、質の高い商品やサービスを手頃な価格で提供するのが競争の必要最低条件になっているように、『医療のプロが患者に的確な治療を施すのは当たり前』という時代が到来している。“お医者様は神様”であった時代はとっくに終わりを告げているのに、残念なことに、日米両国を見ても、医療サービスのクオリティ、そして満足度といった面で、まだ多くの医療施設が競争の土俵に上がる体制さえ整っていないというのが実情である。

消費者ニーズに応える簡易クリニック

医療市場が一般消費市場に近付くにつれて、一般消費市場において培われてきた競争優位確立のルールが、医療市場にも適用され始めている。

例えば、“Deliver the right product, to the right place, at the right time (顧客が欲しいものを、欲しい時に、欲されている場所に届ける)”というのは、1990年代後半から主流化してきた競争原理であるが、これに倣った新しいビジネス・モデルやサービス・モデルが、米国の医療市場においては次々と誕生している。

一例を挙げると、ウォルマートやターゲットなどのマス・マーチャンダイザーや、ウォルグリーンやCVSなどのドラッグストアが昨年から進めているインストア・クリニックの展開がある。これは、日本のビジネス・メディアでも、“コンビニ・クリニック”などといった名称で報道されていることと思う。米国の病院では、風邪などといった軽い病状の場合に、いきなり病院に行って医師に診てもらうことはできない。必ず予約をとることが必要だが、当日に予約をとることは至難の技である。救急や“Urgent Care”と呼ばれる準救急のようなクリニックを訪れて飛び入りで診察を受けることもできなくはないが、何時間も待たされることが普通である。薬を処方してもらいたいとか、注射をしてほしいとか、簡単な用件でさえも、いったん病院に行ってしまうと、待たされた挙句、仕事を半日休むような羽目になってしまうので大変不便だ。そういった“問題点”に着目したのが、大手リテール・チェーンの店舗内で展開されている簡易クリニックである。これらの簡易クリニックは、クリニック運営に特化したチェーン・オペレーターがリテーラーからテナントとして場所を借りる形で展開しているものであり、准看護師や医療助手が常勤し(場所によっては医師が勤務しているところもある)、アレルギーや気管支炎などといった一般的な病状に対して診察し、処方箋を出したり、注射をしたりなど簡単な処置を行ってくれる。

簡易クリニックの強みは、速い、安い、便利の3拍子に集約され、ターゲットやCVSのテナントとしてクリニックを運営しているミニットクリニック(MinuteClinic)のように、「予約なしでも待たされることなく15分間でスピード診察」とそのメリットを謳っているところもある。また、ほとんどの診察や処置が、最も高いものでも100ドル程度、平均では50ドル程度と安価であり、診察や処置が明確にメニュー化されていて価格の透明性が高いことも魅力のひとつとなっている。米国では医療施設によって、まったく同じ診察内容でも価格が大幅に異なるのが普通であり、簡易クリニックの価格帯を一般クリニックや病院の救急と比較すると、一般クリニックでは簡易クリニックの約2倍、そして病院の救急では約4倍以上の価格が徴収されていることがわかった。

国民皆保険制度に慣れきっている日本の方にはピンとこないかもしれないが、米国には医療保険をもたない人が約4,300万人もいるため、従来型の医療施設に比べ安価な医療サービスを提供する簡易クリニックの存在意義は大きい。加えて、一般の医療施設が休業している週末や祭日にも営業していること、店舗小売業が運営している調剤薬局と併設されており、患者が、処方してもらった医薬品を即座に調達できることも、インストア・クリニックの便宜性を大いに高めていると言える。

お医者さんはサービス・プロフェッショナル

冒頭に、「お医者様は神様」であった時代はもう終わった、と述べた。医療の現場において、今日、医師の担う役割を考えると、医師は専門的な医療サービスを提供する“テクニシャン”であるばかりではなく、重要な顧客タッチポイントを司る、“サービス・プロフェッショナル”であると言える。つまり、今日の医師に求められている資質は、医療という専門のスキルや知識のみならず、“患者”という名の顧客に対して、満足のいく体験、感動を与える体験をいかに創造するか、という、“ヒューマン・スキル”でもあると言えるのだ。

カスタマー・サービスの世界でよく使われる、“Moment of Truth(真実の瞬間)”という言葉は皆さんもよくご存じであろう。1978年にスウェーデン人のリチャード・ノーマン氏が提唱したコンセプトで、あらゆる顧客接点において、顧客が企業のサービス・クオリティに関して印象を確かにする決定的瞬間のことを指す。医療の世界における究極の“真実の瞬間”に、医師がいかに対処するか。米国で、この指導に取り組んでいる団体の話を最近耳にし、大変感銘を受けた。

医療の世界における究極の“真実の瞬間”とは、不治の病について医師が患者自身やその家族に宣告をしなくてはならない瞬間だろう。ましてや、これが年少の患者の場合には、事の深刻さや責任は医師の肩に重くのしかかる。現在、米国の病院やホスピスでは、小児科の医師を対象に、死を前にした子どもやその家族に対していかにその“不幸な知らせ”を伝えるか、ということに関する指導に力が注がれている。最も代表的なのは、マサチューセッツ州ボストン市のチルドレンズ・ホスピタル(小児病院)において、ハーバード大学メディカル・スクールの協力により開発されたトレーニング・プログラムだ。1日完結のワークショップ形式で行われる同プログラムは、1、2カ月に一度の割合で開催され、これまでに300人を超える医療関係者が参加しているという。

同ワークショップは、ビデオ映像による演習、実話に基づくロールプレイ、フィードバック・セッションの3本立てで構成される。例えば、ロールプレイのある一場面では、医師は、10代の少女を相手に白血病の再発を宣告し、残された日々に関する本人の意向についての会話を切り出さなければならない。テディベアを抱きしめてすすり泣く少女は、“役柄”を演じる役者であるが、研修中の医師を襲う感情はまったくリアルなものであるという。また、ロールプレイの終了後には、病気や事故で子供を亡くした経験や、治療不可能な疾患を抱える子供をもつ家族を交えたフィードバック・セッションが行われる。「“死”という単語を口にするのを恐れないでください。“terminal(末期の)”や、“critical(重大な)”という言葉は、衝撃を緩和するように見えても、家族を混乱させ、いたずらに希望をもたせることにもなりかねません」。提供されるアドバイスは、実体験に根ざした重みあるものだ。

従来のメディカル・スクールにおいては、医療の知識やスキルを教えることにフォーカスが偏っていて患者とのコミュニケーションをいかに円滑化するか、つまり、医師自身の言動や対応、そして、リスニング・スキルを通じて、いかにして患者に満足感と安心感を与えるか、ということは軽視されてきた。これは、医療というビジネスが、“商品/サービス”である診察や治療を提供する、ということだけで成立していたことの証であると言えよう。顧客主導の波が医療市場にも押し寄せる中、“商品/サービス”の提供のみならず、“顧客”である患者に対する包括的なエクスペリエンス創造のプロセスが問われる時代になってきた。顧客のニーズを発想の出発点とした新しいビジネス/サービス・モデルの開発が、医療の世界にも求められていると言える。


*本記事は月刊『アイ・エム・プレス』(123, 2006-8)に掲載されました。
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